• 9月3日(火)有明アリーナ 井上 尚弥(世界スーパーバンタム級4団体王者、大橋) vs TJ・ドヘニー(WBO2位、アイルランド)
  • 9月3日(火)有明アリーナ 武居 由樹(WBO世界バンタム級チャンピオン、大橋) vs 比嘉 大吾(同級1位、志成)
  • 9月3日(火)有明アリーナ 平岡アンディ(WBA世界スーパーライト級7位、大橋) vs イスマエル・バロッソ(同級暫定王者、ベネズエラ)

大橋会長曰く、大橋ボクシングジムの歴史そのものと言われた元WBCスーパーフライ級チャンピオンの川嶋 勝重 氏。ボクシング未経験者の21歳の若者が大橋ジムの門を叩き、それから世界チャンピオンになるまでの思い出を存分に語っていただきました。

1974年(昭和49年)10月6日、千葉県出身。97年2月、22歳でプロデビュー。 2002年4月、日本スーパー・フライ級タイトルを獲得。2003年6月、WBC世界スーパー・フライ級王者の徳山昌守選手に挑戦したが判定負け。2004年6月の再挑戦で1回TKO勝ち、世界王者の夢を果たした。

2008年引退後は妻と一緒にオリジナルジュエリー「Ring」を経営し、第2の人生を送っている。

なぜボクシングを?
高校時代には野球をやってました。卒業して千葉の東芝にサラリーマンとして就職してからも軟式の野球をやってましてね。社会人で野球といいましても週1回くらい練習するくらいで、東芝社内だけの大会(60チームくらい)の前だけ仕事終わってから練習するくらいでしたね。ですからボクシングにはまったく無縁でした。格闘技は好きでしたが、テレビで見てたくらいですね。大橋会長や辰吉さんの試合もテレビで見たのは覚えています。

そんなことをしている時期に小学校・中学校の時の同級生から「今横浜に住んでいてボクシングをやっているんだけど、今度プロデビューすることになったから応援に来てくれ」と連絡が来たんです。地元の友達20人くらいで横浜文化体育館へ行きました。この試合のメインは川島 郭志さんの2回目防衛戦(1995年1月18日)でした。ヨネクラジムの興行だったので、その友達は大橋ジムの選手だったんですけど、前座として試合を組んでくれたんですね。ボクシングを生で見るのは初めてで、テレビで見るのとこんなに違うのかとびっくりしたのを覚えています。

昔一緒に遊んだ友達がリングの上に立ってスポットライトを浴びている姿がとても信じられなくて、その時に純粋にあの舞台に立ってみたいというのがその時の気持ちでした。試合をする2人だけの世界観があると。
そんな動機だけで?
ええ。

でも...親も反対するだろうなあと思いながら、それから3ヶ月くらい悩みましたね。会社の同僚や上司に相談しましたが、上司には「おまえさあ、今からボクシングやってどうすんだよ。できるはずないだろ。」という感じでおもいっきり反対されました。(笑)
でもボクシングをやりたいという信念は変わらず、親にも猛反対されましたが会社を辞めることにしました。

そのプロデビューした友人に相談したらちょうど隣の部屋が空いているので、来ないかと誘われて、でっかいカバンに何日間かの服なんかを詰め込んで横浜に行ったという感じですね。1995年の8月21日のことでした。その日ははっきり覚えています。
結局大橋ジムに入るわけですが、始めはどんな感じでしたか?
その8月にジムに入りました。野球をやってて体力には自信あったんですけど、ボクシングってこんなにむずかしいのかと驚きました。(笑)

始めは鏡の前でパンチを止めることしかやらせてもらえなくて、ジャブとワンツーを鏡の前で3ヶ月くらいやってました。まったくそれだけです。バンデージも2週間くらいしてやっと巻けるようになりました。

スパーリングはかなり上達した人しかやらせてもらえないんですけど、ボクの場合はかなり他の選手より遅かったですね。いざやってみるとこれはむずかしいなあと始めは思いましたね。サンドバッグは動かないから結構うまくできていたのですが、今度は相手が人間で動きますからね。

その時の大橋会長にはまったく目にも止まってなかったですね。当時大橋ジムは在籍だけでも200人くらいいましたからね。大橋会長がジムを開いて2年目くらいの時です。

始めはそんな感じでしたからもうやめちゃおうかなとか何回か思ったことも正直ありましたけど、親の反対を押し切ってまでボクシング初めて1年くらいで辞めて帰るのもできないなあと思いながら続けていたのを覚えています。(笑)
プロテストは?
ジムに入って半年くらいした時ですかね、会長にプロテスト受けたいんですけどと直談判したんです。だいたい会長のほうから「そろそろ受けてみるか?」と言われる人が多いんですけど、私にはいっこうに声がかからなかったんで会長に直接お願いしたんです。その時は会長にはあっさり「君はまだダメ!」の一言で終わってしまいました。

そのころ大橋会長から指導を受けるということはいっさいなく、今もいらっしゃる平戸トレーナーやヨネクラジムから来た人見さんがボクの指導をしてくれました。

その「ダメ」と言われてから3、4ヶ月くらいしてからもう一度言いに行ったんです。その時大橋会長には「じゃあアマチュアの試合に出て、もし勝ったらテスト受けてもいいよ!」と約束を取り付けたんですね。 試合はそれから1、2ヶ月後ぐらいにあって、たぶん会長はどうせ負けるだろうくらいに思っていたんですけど、KOで勝っちゃって、そのまま即刻プロテストの申し込みをしました。 会長も約束だからしょうがないなという感じでしたね。プロテストは一発で合格して、それで97年の2月にデビューすることになったんです。
戦績をみるとそれからトントン拍子に勝ってますよね。チャンピオンになりたいと思ったのは?
そのデビュー戦も川島 郭志さんの7回目の防衛戦がメインイベントでした。何か川島 郭志さんとは縁があるのでしょうか、今も川島 郭志さんのジムがお店と近くてね。

6戦目の全日本新人王で負けてから12連勝したんですが、その時でも世界チャンピオンなんて夢にも思っていませんでしたね。世界チャンピオンというのは、日本チャンピオンになって初めてそういう夢が出てくるのであって、ましてや川島 郭志さんのような世界チャンピオンのボクシングは私とはまったく次元の違うレベルにありましたから、絶対にできないと思ってましたからね。

日本チャンピオンを意識したのは、全日本新人王決定戦で負けてから、B級トーナメントという大会に出て優勝できたんですが、その時に初めて日本ランキング入りした時ですね。ランキング入りしたということはチャンピオンへの挑戦権を得られたわけですからね。ここまできたら日本チャンピオンにはなりたいと思いましたね。
この辺になると大橋会長も期待していたのでは?
その頃でも会長の目にはボクは止まってなかったと思いますね、わからないですけど。松本トレーナーも土屋くんとか見ていたし、私は平戸さんや他のトレーナーが見ていてくれていました。

そのころも横浜高校からボクシングエリートがジムに入ってきていたんですが、彼らもすぐに負けては辞めて行ってしまって、終いには勝ち続けていたのは私だけという感じだったですね。(笑)
やっぱり高校だけでやっているのと、八重樫などのように大学までやっているのとでは全然違いますからね。

会長に認められたのは、白井・具志竪ジムの柳川 荒士選手とのランカー対決の時ですかね。柳川選手は中央大学出身のアマエリートで名前もある人だったんですけど、試合もポイントでは柳川選手に取られていたんですけど、終盤に倒せてギリギリ勝てたのですが、そのころから会長もいろいろアドバイスくれるようになったと記憶しています。
そこからすんなりとタイトルマッチまでいけたのですか?
そのへんから日本チャンピオンになるまで少しかかるんですけど、その頃がやっぱり精神的につらかったです。試合に勝ち続けてもランキングは上がらないし。ランキングの上の選手が負けたり、辞めてしまわないとランキングは上がっていかないですからね。その頃松本トレーナーから毎日のようにチャンス来なくても腐るなよって口酸っぱく言われてましたね。でもその時期が長く感じられて、やっぱりやる気がなくなってしまうこともありました。

その時に会長がランキングがなかなか上がっていかないので、1階級あげて東洋太平洋のタイトルマッチをやらないかと。相手のチャンピオンはフィリピンのジェス・マーカ選手でとても強い人で、日本人選手がことごとく負けていたんですが、挑戦する選手がケガしてしまったので会長がその話を持って来てくれたんです。強い選手ですけどやるしかないなあということで、試合もそれから1ヶ月くらいしかなかったですけどね。

試合は判定で負けたのですが結構善戦したので、 会長も日本タイトルに挑戦できるように考えてくれるようになったみたいですね。それで当時の世界ランク7位のヨックタイ・シスオー選手とのマッチメークをしてくれたんです。ヨックタイに勝って世界ランカー入りできたので、当時の日本チャンピオンである佐々木 真吾さんと試合できるようになったのです。
松本チーフトレーナーとは?
松本チーフトレーナーに見てもらえるようになったのは、B級トーナメントに勝って暫くしてからくらいでしたかね。

松本さんは選手を育てるのが上手ですね。そんなに厳しく怒ったりするタイプじゃないんですが、特に私の場合はものすごく固いボクシングだったんですね。いままで教えてもらったことをそのまま反復練習して作り上げて来たボクシングだったんで、柔軟さがボクシングになかったんです。現役時代の松本さんと言えば、とても柔らかくてうまいボクサーだったので、松本さんに教わってからそういうのを意識するようになったんですね。ただ強いパンチを打つだけじゃなくて、うまくかわしたり、いなしたりすることを教えてもらって、そういうボクシングの要素が加わって私のボクシングスタイルが完成していきました。間違いなく松本さんに教わったことによってボクシングのレベルが上がりました。

それまで教えてくれた平戸トレーナーはそれこそ基本をみっちり教えるタイプの人で、それが嫌になって辞める人がいるくらいみっちり仕込んでくれるのですが、平戸さんなどの基本がなければ絶対ダメだし、松本さんの柔らかいテクニックがなければ世界チャンピオンにはなれませんでしたね。大橋ジムのチームワークがボクを作ってくれたと思いますね。
日本チャンピオンになったわけですからもう世界を意識してるでしょう?
日本チャンピオンになって次は世界チャンピオンと人には言われるんですが、日本と世界との壁は相当高いと自分の中では思っていたので、目標ではあるのですがその時はまだ考えていなかったと思います。

でも会長に「初防衛戦でKO勝ちして実力を見せれば世界挑戦の話がくるかもね」とか言われた時ですかね、何か世界がおぼろげに見えてきたのは。でもチャンピオンになるなんて考えてなかったと思いますよ。初防衛戦にKOで勝てて、会長に世界戦の話がくるかもしれないからということで、日本タイトルを返上してチャンスを待ちました。1戦はさんで、ついに世界挑戦が決まったのです。
3回対戦することになる徳山選手は?
でも相手は当時6回防衛している徳山選手ですからね。もちろん勝つつもりでしたが、やはり壁は高いなとも感じてはいました。

それよりも世界戦自体が初めてだったので、練習でも力が入りますし、どのくらい練習したらいいのか加減もわからなくて、試合3週間前くらいにオーバーワークで腰を痛めてしまいました。試合当日は完全に腰は直っていたのですが、2週間以上練習できなかったのがキツかったですね。

判定で負けてしまい落ち込んでいたのですが、ケガさえなく100%の調整ができていれば勝てたんじゃないかとも少し思っていました。試合が終わった日の夜か次の日に会長から「もう一度絶対に挑戦させてやるからな」と言われた時、その悔しさを吹っ切ることができました。

知っての通り次の徳山選手との再戦で世界チャンピオンになれました。自分の予想では苦しい試合で判定勝ちという図式を描いていたので、正直1ラウンドで試合が終わったのは自分でもびっくりしましたね。でもあの時の徳山さんはいつもと違ってガチガチだったような気がしますね。リングに上がった時から表情を見ても冴えない感じはしました。
ムニョス戦と引退については?
最後のムニョスの試合終わった後、川嶋勝ったなという雰囲気が会場にありましたけど、自分としてはちょっとポイント足りなかったかなあと思いました。後日自分がジャッジとしてVTR見て採点したんですけど、ドローだったかなと。でもドローだと勝てないわけですが、日本でやってるから1ポイントくらい勝っててもいいんじゃないかとは思いましたよ。(笑)

ムニョスはそれまで倒された選手が失神してましたから、どんなすごいパンチなんだろうと思っていたんですけど、それほどパンチ効かなかったですね。確かに強いんですけど、予想してたのがスゴかったんでね。それよりも私のムニョスへのボディの方が効いていたと思いますよ。

結局そのリング上で大橋会長が私の引退を発表するわけですが、事前に負けたら引退すると会長とはまったく話をしてはいなかったんですよ。ただ自分の中では年齢的にも最後かなとは決めていましたけどね。試合で負けてリング上で会長が「いいよな」と言われたので「あああれを言うんだろうな」と思ったんで、二つ返事で「はい」と言ったんです。
大橋会長については?
大橋会長は頑張っている選手には必ずチャンスをくれます。ただそれは結果を残すことが条件になりますけどね。

大橋会長は一般の人には面白い話をして明るい感じの人なんですけど、僕ら選手にとってはとても恐い人なんですよ。やっぱり。今でも会長に会うのは緊張しますからね。もちろん現役の後半はそんなに怒られることもそんなになかったんですけど、4回戦の頃は結構怒られていましたから、その時のイメージの方が強くてね。

そういう恐さもあるんですが、やっぱり元世界チャンピオンの先輩ですから、その存在が大きいのが理由なんだと思います。気楽に一緒に飲んでいる時でもやっぱり緊張しますね。いまでもそれは変わりません。長年ヨネクラジムでいっしょにやってきた松本さんでさえ、大橋会長との関係はやっぱり1つのけじめがある感じですしね。
その他に思い出は?
伊豆の合宿ですかね。朝のロードを12キロくらいやるんですが、アップダウンがキツくて最後はゴルフ場のてっぺんの方まで行くんですね。それで少し昼寝をして2時頃から400メートルから800メートルくらいのダッシュを20本くらいやって、その後ジムに行ってサンドバッグ30分間殴り続けるんですが、会長が目の前にいるので手を抜けなくてきつかったですね。(笑)
いつもの練習ではこんなアップダウンのあるコースやダッシュもこんなに毎日やらないですから、合宿1週間近くあるんですけど、若い選手とか足が痙攣したりして3日くらいでリタイヤしちゃいますけどね。本当にしんどかったですね伊豆合宿は。
今はどうしてますか?
今の仕事(オリジナルジュエリーの製作/販売)は全く新しいことをしてまだ修行中のこともあるんで、反対にボクシングしていた方が楽だったなあと思う日もありますね。(笑)
ボクシングにはない難しさがありますからね。

でも妻の作った指輪やジュエリーをお客さんが喜んでくれるのを見ていい仕事だなと実感してますね。